【終活宣言】家族に遺したいのは「お宝」ではなく「自由な時間」である。

物の重さは、心の重さ
いまここ遺品整理の白坂です。

「ねえ、これどうするの?」

いつか私が旅立った後、残された家族が眉間にシワを寄せながら、私の部屋で立ち尽くす姿が目に浮かびます。

右手に持っているのは、いつか使うと思って取っておいた「謎のコード(何の家電用か不明)」。
左手には、二十年前に旅先でテンションが上がって買った「口から煙が出る木彫りの人形」。

正直に言いましょう。
そんな光景、あの世から見ていて一番申し訳ないやつです。

最近、「終活」という言葉をよく耳にします。

でも、多くの人が勘違いしている気がするんです。終活とは、なにも立派な遺言書を書くことや、高価な着物を整理することだけではありません。

私が本当に家族に遺したいもの。。。
それは、キラキラした宝石でも、歴史を感じる骨董品でもありません。ましてや、「これを片付けるのにあと何日かかるんだろう…」という絶望的な作業時間でもないのです。

■「モノ」は時に「呪い」に変わる

想像してみてください。
愛する家族が亡くなり、悲しみに暮れている最中。ふと押し入れを開けたら、雪崩のように落ちてくる「いつか痩せたら着ようと思っていた服」の山。天袋から発掘される、バブル時代の肩パッド入りのジャケット。

これ、残された側からすれば、もはや遺品という名の**「嫌がらせ」**に近いものがあります。

「お母さん、これ大切にしてたから捨てづらいわね…」

そんな風に、家族の優しい心を「捨てられない罪悪感」で縛り付けたくないのです。私の思い出は、私の脳内だけで十分に完結しています。モノに宿らせて家族のクローゼットを占領させるなんて、そんな厚かましい幽霊にはなりたくありません。

■ 究極の遺産は「空っぽの空間」

私が理想とするのは、私の死後、家族が「え、片付けこれだけ? 15分で終わっちゃったんだけど!」と拍子抜けして、そのまま余った時間でおいしいお寿司でも食べに行ってくれること。

「お母さん、本当に何も残さなかったね(笑)」
「潔すぎて笑えるわ」

そう言いながら、ビールで乾杯してほしい。

その一杯のビールの時間は、私が遺した「片付けなくて済んだ時間」が生み出したギフトです。

高級な時計を遺すよりも、「週末を丸ごと潰してゴミ処理場を往復する重労働」をさせないこと。 それこそが、私が最後に家族にできる最大の優しさだと確信しています。

■ 捨てられない「謎のこだわり」との決別

とはいえ、私も人間です。
「これ、まだ使えるしな…」「これ、高かったんだよな…」という心の声と日々戦っています。

先日も、2010年のカレンダーの裏に書いた「美味しいカレーの隠し味メモ」を捨てようとして手が止まりました。でも、よく考えたら今の私はクックパッドを見ています。そのメモ、絶対に見返しません。

また、いつか誰かにあげようと思って取っておいた、ブランド物の紙袋の束。あれを積み上げても、天国への階段にはなりません。ただの「燃えるゴミ予備軍」です。

こうした「いつか」や「もったいない」を一つずつ手放していく。それは、家族の未来から「面倒事」を削ぎ落としていく作業でもあります。

■ 最後に残るのは、たった一行の「ありがとう」

モノを減らして、空間を空けて、最後に残るものは何でしょうか。

それは、物質的な何かではなく、もっと形のない、もっと温かいものです。

私が遺したいのは、
「あなたたちの家族でいられて、本当に楽しかった。ありがとう」
という、たったそれだけの気持ちです。

膨大な荷物の中にその言葉を埋もれさせたくありません。

すっきりと片付いた部屋で、ふと思い出した時に「あんな面白い人だったね」と笑い合える記憶。それだけで十分、お釣りが出るほど幸せです。

だから私は、今日もゴミ袋を片手に立ち上がります。

家族に「遺品整理」という苦行をさせる代わりに、「自由な時間」と「笑える思い出」を遺すために。

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