

いまここ遺品整理の白坂です
実家や他人の家に入ったとき、思わずこう感じてしまったことはありませんか? 「どうしてこんな『ガラクタ』を、ずっと取っているんだろう……」
色あせた古いパンフレット、使い道のわからない置物、何年も着ていない服。 自分のものさしで見ると、それはただの「手放すべきモノ」に見えてしまいます。
特に、親の家の片付けとなると、つい「早く捨ててよ」「なんでこんなゴミを溜めるの!」と、言葉がトゲを帯びてしまうことも少なくありません。
でも、ここで一度、立ち止まって考えてみたいのです。 そのモノを「ガラクタ」と決めているのは、一体誰なのでしょうか。
■ 他人のものは「ただのモノ」、自分のものは「思い出」
人間の脳は、不思議なものです。 自分のモノには、手に入れたときの記憶や、一緒に過ごした時間の「ストーリー」が背景に見えます。だから、どんなに古びていても「宝物」になります。
しかし、他人のモノ(たとえ親であっても)には、その背景が見えません。 ストーリーというフィルターを通さないため、剥き出しの「ただの物体」として目に入ってきます。
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自分の古いアルバム: 当時の記憶が蘇る「宝物」
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他人の古いアルバム: 知らない人が写っている「重い紙の束」
このギャップがあるからこそ、「親のモノ、他人のモノはガラクタに見える」のは、ある意味で当然のことなのです。
■ 100人いれば、100通りの「ものさし」がある
モノの価値を決める「ものさし」は、育ってきた時代や、これまで歩んできた人生によって一人ひとり全く異なります。
実用性や効率を重視する人にとっては、使っていないモノはガラクタかもしれません。 でも、そのモノがあるだけで心が落ち着くという人にとっては、それは立派なエネルギーの源です。
親世代が生きてきた時代背景と、私たちが生きる今の時代背景も違います。モノが少なかった時代を経験した親にとって、モノを大切に手元に置いておくことは、自分の人生を肯定することそのものだったりするのです。
それを、こちらのものさしだけで「ガラクタ」と決めつけてしまうのは、少し寂しいことだと思いませんか。
■ 大切なのは、相手のものさしを「否定しない」こと
他人の部屋や実家を片付けるとき、一番大切なのは、自分のものさしを横に置いておくことです。
「なんで取っておくの?」ではなく、「これ、どんな思い出があるの?」と聞いてみる。
もしそこにストーリーがあるのなら、たとえ自分にはガラクタに見えても、相手にとっては紛れもない「たからもの」です。その気持ちを尊重することから、本当の意味で心地よい整理が始まります。
人のものはガラクタに見える。 だからこそ、私たちは他人のモノに対しても、その奥にあるかもしれないストーリーに、少しだけ想像力を働かせていきたいものです。
あなたにとっての「たからもの」が、誰かにとってのガラクタであってもいいように。 みんながそれぞれのものさしを、大切に持っていられる世の中でありますように。
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